感覚を共有できることがどんなに嬉しいことか。
感覚を共有できることが、どんなに嬉しいことか。
久しぶりに、思いました。
そしたら、久しぶりにこのブログを思い出しました。
書くなら、あ、ブログか、と。
もうすっかり1年以上も放置してしまっていたとは、、、
自分の余裕の無さが伺えます。
私は自分が思ったこと、感じたことを言葉にすることが苦手です。
小さい頃から、すーちゃんて何言ってるかわかんなくておもしろーい、とか言われてました。苦笑。
これにはいろんな感情が渦巻きますが、この話は置いておいて。笑。
20年以上、そうだったから、感覚で喋れる人なんていないんだと思っていた。
だからこそ、写真で表現せねば、と、思い込みすぎていたときもあった。
それが、あのひとだけは違った。
初めて、感覚で喋ったのに、その世界にふわっと寄り添ってくれた。
とても驚いた。
ずっと孤独だった世界に、そのひとが寄り添ってくれたことで、
私はひとりじゃないんだ、このひとが居れば何も怖くない、
恥ずかしながら、そこまで強く感じたことに、自分が一番驚いた。笑。
でも、人間はそんなにシンプルじゃない。
私の求める部分、相手の求める部分。
私が求められると辛い部分、相手は求められたら辛い部分。
そういうものがだんだんと見えてきて、、、
一緒にいることが辛くなってしまった。
一線を越えなければ、もっといろんなことを語り合えたのかな。
いや、一線を越えたからこそ、あの場所に踏み入れ続けることが出来たのだ。
あの包まれる位置には、そうでないと、入れてもらえなかっただろう。
あのひとの隣に立ち続けるには、常に表現と向き合い続けなければならなかった。
あの頃の私には、あのひとの立つ場所の近くで同等のものを求められるのは、プレッシャーが強すぎた。
表現に没頭したい自分と、
無難だけど家族を受け入れてもらえる環境の平凡な幸せの中に居たい自分とを、
切り離せなかった私は、苦しくなって離れてしまいました。
そこに後悔はないのだけど、ふと、さっき読んだ記事で感じたことを、話して面白い会話になりそうな人を思い浮かべたときに、悔しいかな、とても久々にそのひとのことを思い出しました。たぶん、間違いなく、あのひとは面白いから。私がうまく言葉を紡ぐことができなくても、端々で気持ちをひろいあげてくれて、それと同時にまた興味深いことをたくさん教えてくれるのだろうな、と。
あの頃には希望しても叶わなかっただろうけど、あのひとと今でも友人だったら良かったのになぁ、
なんて、しても仕方のない後悔をしています。
「田舎に帰って、トウモロコシの写真なんて送って来たら、許さないから。」
そのひとと離れるときに、言われた言葉です。
軽く冗談混じりに、でも本気でもある、なんとも絶妙なところを突いてくるもんだなと思ったのを覚えています。
何も頭で考えずに写真表現に没頭する日々を、また過ごしてみたいな、とぼんやり夢見つつ、素敵な感性の方は世の中にたくさんいらっしゃるけれど、それはそれとして、私は私である根幹の感覚、感性、これを見失わないようにしながら、生きていきたいもんだなぁ。
そう思いました。
喫茶店で景色を眺めながら、部屋でアニメーションを見ながら、バイクの後ろで桜ふぶきを浴びながら、いろんなことを感じることを楽しく過ごせたあの日々、、、
ほんと、ただ、あの頃みたいに、一緒に、喫茶店でおしゃべりしたいなぁ。
そんなのは私の勝手な都合と願望だと、勝手すぎると怒られそうだけど。笑。