すーのつれづれ

すーが日々思ったことを綴っていきます。

ひとつのことしかできない不器用さ。

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娘を迎えに行く途中、道端でひろった素敵なギフト♡

30何年間、私はこの私で生きてきたわけですが、、、われながら自分の不器用さに泣けたり、笑えたり、する日々をときどき送ります。苦笑。

今朝、のんびりしながらの日曜、あさごはんの支度をしながら、工作に励む子どもたちに呼ばれ、はいはいと見に行っていたら、、、ん?あ!トースト焼きすぎた!と思った矢先に「シューッ」とコンロから音が!、、、鍋から牛乳溢れ出てる!、、、はぁ、、、やっちまった、、、いけるかなと思ったけど、やっぱり1つずつにするべきだった。苦笑。

これ、昼にもやりました。苦笑。

冷やしラーメン茹でながら、モロヘイヤを茹でる。モロヘイヤも少量だったからいけると思ったんです。。。茹でることは時間差にしたので、できたんです。。。モロヘイヤは茹で終わってザルにあげて、ボウルの中に入れて水を張って、、、と思ったら、「ピピッ」とタイマー鳴ったので、ラーメンの鍋を見に、、、行ったら、あ!モロヘイヤが水流に乗ってザルからあふれてボウルからも流れ出ちゃう!、、、なんとかギリギリ間に合いましたが、ドッタバタ。苦笑。

まぁ、案の定、キュウリやトマトを切るのは、それからで、となると、大して時短にもなってる気がしない。苦笑。


なんでだろう。
私の夫は、時短できる人、料理を同時進行で進めたりできる人、お互い「なんでそうなるんだろう」という関係性。笑。

夫から見れば「なんでそこを同時にできないの?それやってる間にこっちやればいいんだよ。」

私から見れば「なんであんなにいろんな動きを同時にできるんだろう。頭がこんがらがりそう。」


不思議。

ほんとね、私は、いつからか気づいた。
私はまわりのみんなと同じことをするためには、倍の時間が必要なんだ、と。

だから、みんなと同じことを同じ速度で同じクオリティでやろうとすると、すごくストレスがかかる。苦笑。

そう考えると、生きている時間が半分に感じて、寝てる時間がもったいない、と本気で思っていた。高3のとき、どんな未来が欲しいか、とか、近い将来あったらいいなと思うものは何か、みたいなことをみんなで考える時間があった。なんの授業だったのか、今では不思議だけれど。笑。

私は即答で「実際の睡眠時間1時間で、8時間分の休息を取ることが可能なカプセル!」と書いていたのをよく覚えている。そのときの先生には、「おぉ〜、それはあったらいいねぇ〜。」とさらっと言われたのを覚えていて、「なぜだ、こんなの本気で思うことだろうが!」くらいに熱く思っていたように思う。笑。


実際、高3の頃は、かなり生き急いでいた頃だったように思う。
いろいろ良い方向に進んでいたように見えた私は、祖母に「おまえは恵まれすぎている。そのうち痛い目にあう。だからもっと感謝するべきだ。」そのようなことをいっつも言われていた。

短絡的な私は、なぜかそれを言われ続けたことにより、「そうか、私はすごく恵まれているんだ。だから長く生きられないのか。」と脳内解釈を勝手にしていて、20才で死ぬと思っていた。苦笑。

だからこそ、生きること、学ぶこと、いろんなことに必死だった。

ずっとそう思い続けて日々を過ごしたわけではなくて、のんびりしてるときももちろんあったのだけれど、心の底ではそう思っているので、いろいろとやらなくてもよかったことも焦ってすぐ行動に移してしまい、空回りすることも多かったように思う。

いつだったか、ここ数年の間に、色々学んだときに、ふと、これ、無意識下では、どうやら「そのままでは認めてもらえない状態」だと感じていたんじゃないか、ということに気づいて、それがずっと続くなんてそりゃ悲しかったよなぁ、とひとり泣いた記憶があります。



「そのままでいいよ」ということが、どれだけ何歳になっても嬉しいことであるか、子育てを始めて、自分の心の葛藤と向き合い、視点を変えて、見つめて、やっと気づけて、まだまだ実践中です。


冷静に考えれば、いいことが続けば、辛い時代も来る、と考えるのがバランスな気もするのだけれど、なんでなんだろうなぁ、その頃はそういったことに全く思いつかず、思い込みはこわいもので、そう思っていて、しかも「写真がなければ私は生きていけない」とかも同時に思っていたので、色々あって19才のときに写真から思い切って離れたときに、写真がなくても息ができてる、写真がなくても人と話ができてる、あれ、あたし写真がなくても生きていけるんだ、と知ったときに、ものすごく開放感を感じ、同時に寂しさもこみ上げた。

そして20才になる前、祖父が死んで、たくさんの方が弔問に訪れるのを見て、「なぜこんなに必要とされている祖父が死に、何の役にも立たない私が生き残るのか。」と不思議でならなかった。まぁ、それは直前の病床の祖父に急に手をつかまれて言われた言葉が「すみこ、お前は何の役にも立たないから、、、」だったからだとは思うのだけれど。苦笑。

まぁ、それもそのときはあまりのショックで、祖父がそこまで言ったところでそれ以上聞きたくなくて私から手を離して病室を出てしまったからで。その先を聞く機会なく、祖父が旅立ってしまったことで余計にこじれてしまった想いなわけで。。。


後から、祖母や母、叔母、まわりの人たちの解釈も聞くことで、少しずつ、わかったことがありました。

祖父は昔堅気な人で、弱ったところを娘にすら見られたくないと思っていたそうで、かといって祖母だけに世話させられる状況じゃなかったから、娘たちだけには仕方なく許したけれど、かわいい孫たちにはそんな姿は見せたくなかったから、私が祖母の補助的な意味合いで病室に来ていたことがいやだったからだったろう。とのことでした。特に内孫の一番下の私には。

抗がん剤治療でときどき幻覚や幻聴も出ていた祖父。最後の方は、病室で急に笑い出して見えないものが見えていたこともあり、かと思えば真面目に「そこのカーテンを閉めてくれ。」とカーテンも窓もない方向を見て言うこともありました。

あまり弱いところを見せたことのなかった祖父の衰えていく様に、対応するのが私も辛かった。そんな矢先だったから、どうしていいかわからなかった。


「すみこ、お前は何の役にも立たないから、」、、、きっとその続きは「これ以上、病室に居ないでくれ、おばあちゃんを呼んできてくれ、もうこれ以上弱った姿を見られたくないんだ。」という、祖父のプライドから出た言葉で、祖父もそれだけ余裕がなかったんだろう、と思えるようになりました。


そんな祖父ですが、実は私が写真の勉強をしたいと進路を希望していた際に、あんなに高校時代の写真を撮る私に対してわりと否定的でバカにする発言が多かった祖父が、実は父がオッケーしなかったときは自分が援助する、と言ってくれていたということ。祖父の死後、祖母に聞きました。絶対すみこには言うなと言われていたそうです。しかし、あまりにも自分の生きる価値を見失っている孫を目にして、祖母も「もう話してもいいよねと思ってね、、、実はね、、、」と話してくれました。

祖父もまた不器用で、私には直接ほめるようなことは全く言わないくせに、誰かが家に訪ねてくると、玄関に飾ってある全国大会で受賞した私の写真を見せながら、「おれにはよくわからないんだが、孫が撮った写真が賞を取ったんだ。」とよく自慢していたそうです。

ひねくれていた私は、その祖父の姿を1〜2度見た際に、人前で言えるような目に見えた結果さえありゃいいんだろ、結局は優等生要素みたいなものがなけりゃ意味ねえって腹の底で思ってんだろ、と、そう思っていました。苦笑。

それも、今思うと、認めてもらえない寂しさであふれていた裏返しの反抗だったのかもしれない、と思います。自分であの頃の自分を分析。笑。

亡くなってしまった今では、確認のしようもないので、あとはもう私がいいように考えて、捉えて、ときどき実家の仏壇に手を合わせながら「おじいちゃん、あたし今必要とされてるよ。大丈夫。役に立ててるよ。見てくれてる?」と心の中でつぶやいています。笑。


書きながら、思わぬ方向へヒートアップしてしまいましたが、不器用な部分があるのも事実。でもそれも一長一短、逆に1つのことに集中できる、という側面も持っています。たぶん。笑。

何をするにも時間がかかるのはたしかですが、そんな自分をときに楽しみながら、呆れながら、日々、欲張りすぎずに生きること。これからも心がけて楽しみながら生きていこうとおもっています。